東
まずは松井先生ご自身のキャリア、何歳から漫画家を意識していたのかからうかがえますか?
松井
先生
まず漠然と「絵を描く仕事ができればいいな」とは思っていて、高校で漫研に入りました。そこで真剣に将来を考えて描いている先輩に出会ったのが大きかったです。といっても、その先輩はまだ持ち込みも行ってない、今考えればお遊びだったんですが。
東
じゃあ、作品を完成させようとしているくらいの状態ですか?
松井
先生
そうですね。逆にレベルが高すぎなかったからこそ身近に見えたんでしょうね。「本格的に漫画家を目指す」が単なる夢物語ではなく、何かしら行動を起こしている。本当に一歩目だけなんですけれど、実際にやってる人を見て意識がちょっと変わったんですね。
東
十代だと身近な人の影響はでかいですよね。
松井
先生
周りに誰もいなかったり、ただ漠然と目指したいけど何をどうしたらなれるんだろうなと自分だけで思うよりは、誰か取り組んでいる人が身近にいたほうがいいでしょうね。
東
高校在学中にすでに漫画を描かれたんですか?
松井
先生
最初に何描いたっけな…せいぜい5ページとか10ページとか、そんな漫画だった気がします。ファンタジーものの、いかにも何かに影響受けました感が強くある…(笑)
東
みんな、見よう見真似から入っていくものですし(笑)
松井
先生
そういうもんです(笑)
東
集英社に持って行くようになったのはいつ頃ですか?
松井
先生
19歳だったか20歳だったか…それぐらいには行っているはずです。
東
何作か持っていって、たまたま中野さん(現週刊少年ジャンプ編集長)に見てもらったのが最初の受賞作『ラビングデッド』(2000年10月期月例賞特別賞受賞)ですか?
当時の結果発表ページ。審査員特別賞ながら副編集長が激賞。
松井
先生
そうですね。そのあと「ネウロ」までにもちょこちょこ出してはいましたが、「ボボボーボ・ボーボボ」の澤井啓夫先生のアシスタントに忙殺されていてあまり描けていなかった感じです。
あと、どうしても当時、「面白い読切が書きたい」というのがずっとあって、中野さんに持っていっては「いや、そういうことじゃなくてね」と言われるという(笑) その繰り返しでしたね。そういう意識を変えてもらう意味では、本当にアシスタントを経験して一段階大きく変わりました。
東
どんな点が変わられたんでしょうか?
松井
先生
連載はどうするか、毎週の引きをどうするか、澤井先生がとにかく毎週実戦の話を熱く語られるので、「そうか、やはりちゃんと受け続けなければ当然ダメなんだ」と。
たとえば「どんなに一話で良い話ができたとしても、それはしょせん業界、アーティストとしては意味があるかもしれないが、エンターテイナー、また仕事人としては全く意味がないな」と気づかされました。
東
澤井先生はごはん休憩の時などにそういう話をしてくださったんですか?
松井
先生
違います違います。四六時中。冗談抜きで24時間、ずっと。徹夜している時も、おかまいなしで。
東
えっ…
松井
先生
もうゴリゴリ削られていきます(笑) 他にもたとえば、もしも何々が何々したら、モーニング娘。が全員で松井君の命を襲ってきたらどうする?みたいな。
東
大喜利バトルじゃないですか。
松井
先生
もし急にB’zの稲葉になったらどうする、みたいな(笑) 自分もできるだけ突飛な答えをひねり出すんですけど、そうしたら澤井先生が「向こうも全く同じことをしてきたらどうする?」って(笑) それにもとりあえず返していかないといけないので、意識が朦朧としているなかでなんとか絞り出して…
極限の中でのモノづくりという意味では、ひょっとしたら筋肉の一部になっているのかもしれないですね。アシスタントの前と後では、まるで意識が違った気がします。
東
実際に週刊連載をしている方の姿勢を見れたことで。
松井
先生
澤井先生も、最初はもう少し上の読者層に向けているつもりだったみたいなんですけど、 圧倒的に子供に受けていて。そうしたら一気にチャンネルを変えて、澤井先生の中で完璧に子供向けにするにはどうしたらいいかにめちゃめちゃ集中していったんです。
「なるほどな、こうやって自分を変えていくもんなんだな」と。アンケートも毎週毎週、担当さんに何度も聞いて一喜一憂されてました。
東
濃厚な体験でしたね…
松井
先生
そうですね。余さず語ってくれるので、何か盗もう!と思っていた自分にはありがたかったです。
東
そのあと『サッカー』は月例漫画賞の最終候補(2003年8月期)に。
松井
先生
自分ではジャンプ向けのゴリゴリのものを作ったつもりだったんですね。『サッカー』は少しいじればはねるだろうと今でも個人的には思っています。あれ以上に広がりのあるパッケージっていうのは、たぶんここから先思いつくこともないし。
でも、編集部の理解が得られなかったことで一気に冷めたというか。「好きなものを描くというのは一切やめよう」と。「ただただお客さんのために描こう」となったんで、それは結果的に良かったのかもしれないですね。だから「描きたいものは何ですか」と言われても、自分は本当に答えに困るんですけれど。
東
「お客さんが受け入れてくれるものが描きたいもの」、ですか?
松井
先生
そうです。
東
そして、『魔人探偵脳噛ネウロ』が晴れて月例賞準入選受賞(2004年3月期)、少年ジャンプ本誌読切(2004年41号)を経て初連載になったんですね。その頃、担当の中野さんとはどういう話をしていたんですか? 普通は増刊掲載とか目標を立てると思うんですけれど。
松井
先生
僕の希望として、絵もずっと未熟なので、「絵の練習がてら原稿までいかせてください」と毎回言っていたので、その月例賞に出させてくださいと。だから『ネウロ』の時も仕上げてから持っていきました。
東
『描きたい!!を信じる』のインタビューでもおっしゃってましたね。「実戦の中で磨きたい」って。
松井
先生
そうでないと力がどうしても出せないので。