【第2回】ゲームシナリオも手がけていた会社員時代 『SKET DANCE』『彼方のアストラ』『ウィッチウォッチ』篠原健太先生に聞いてみた

絵を描く仕事がしたくて、ゲーム会社に就職。新天地の札幌ではイラストだけでなく、シナリオも担当した。忙しくも充実した日々を送っていたが、28歳で退職を決意。

2024/04/27


――漫画家になるまえに、前職のゲーム会社に就職したのはどうしてですか?

篠原
先生

「ゆくゆくは漫画家」という野望は捨てていなかったので、それに近い職業に就きたいと思ったからです。お給料を得ながらキャラクターを描く仕事は、当時はゲーム会社かステーショナリー(文具系)ぐらいだったので「じゃあゲームにするか」という感じで。当時はプレイステーションなど、いわゆる次世代ゲーム機の台頭で、どのゲーム会社も生きのいい新人を探していました。僕も最初の会社に入って数ゕ月でコナミに転職し、その後、コナミの新会社立ち上げメンバーとして札幌に行きました。

 

――そういういきさつがあったんですね。

篠原
先生

当時は独り身で動きやすかったですし、「先輩や上司がいない立ち上げの職場のほうが面白いかな」と思って。札幌は一度も行ったことがなかったんですが、魅力を感じて行くことにしました。そこから6年間、コンシューマーゲームの開発に携わりました。後半は3Dの仕事が多かったですね。

 

――「イラストの仕事がしたい」という希望は、かなったんでしょうか?

篠原
先生

希望通りの仕事ではないことが、コナミに転職してすぐに分かりました(笑)。社員でイラストを描く業務なんて、ほぼないんですよ。でも、札幌に行ってからはドット絵を学び、『ときめきメモリアル』のパズルゲームの移植作でドット絵のキャラクターを描いていました。だから「イラストをやりたい」という希望から、むちゃくちゃ遠くもなかったんです。僕は立ち上げメンバーのなかでいちばんの若造だったんですが、ほかに美大出身でゲーム会社経験者がいなかったので、引っ張っていかなきゃいけない立場でもありました。なので、『ときめきメモリアル』の移植は初仕事であったにもかかわらず、規模の小さい会社だったこともあり、僕がシナリオまで書いていましたね(笑)。

 

――イラストだけでなく、シナリオも書かれたんですね。

篠原
先生

パズルゲームに「ストーリーモード」があって、そこで使う各キャラクターのお話とグッドエンディング、バッドエンディングのシナリオを書いていました。あと、声優さんの音声収録に東京に出張して立ち合いましたね。いま、自分の漫画がアニメ化して収録現場に行くと「ここのスタジオ、来たな」なんて思い出します(笑)。その後はゲーム業界が3D時代になり、後半は『筋肉番付』というテレビ番組のゲーム化で、僕はモーションアニメーションを担当していました。

 

――キャラクターの動きを作っていたんですか?

篠原
先生

そうです。お金がなくてモーションキャプチャーができないので「手付け」といって、自分の手でアニメーションを作っていました。いまでは考えられませんよ。『筋肉番付』のゲーム化では、登場キャラクターのデフォルメデザインやキャラクターの選択画面のイラストも手掛けていました。実際の出演者の方の似顔絵も描きました。そういう意味では、しっかりイラストの仕事もしていましたね。

 

――ゲームシナリオは、イラストとはぜんぜん違う仕事ですが、やっていていかがでしたか?

篠原
先生

楽しかったですよ。『ときめきメモリアル』は詳しくなかったので、慌ててプレイして、いろいろな資料を読み込んで。書いたシナリオを本社のチェックに出すと「このキャラはこういう喋り方をしない」と返されたりして。当時は「なんでそんなに細かいことを言うんだろう?」と思っていましたが、いま思うと当然だよな、と。いまはキャラクターというものがいかに大事かよく分かります。とくに『ときめきメモリアル』はものすごいヒット商品なので、それを自分が扱っていたなんて、思い返すとある意味ぞっとします。

 

――28歳のときに会社を辞めようと思ったのは、どうしてですか?

篠原
先生

会社の組織変更がきっかけです。僕のいた会社が別会社と合併することになって。それまで小さな会社だったゆえに、プランナーという職種がなくて、グラフィック、プログラム、サウンドのみんなで一つのゲームの中身を考えていたんです。だから「ものを考えて絵を描くということを、ぜんぶやりたい」という希望が叶っていたんですね。それが合併することで「これからは指示されたグラフィックを作るだけになるのか?」と思ったら、なんか急に冷めちゃったんですよね。

 

――漫画家を目指すために、退職したわけではないんですね。

篠原
先生

はい。その時期、プライベートな変化もいろいろ重なったので、いったん区切りの時期がきたのかなと思って。自由の身になったから、何年も気になっていた描きかけの漫画を仕上げて、集英社に持っていこうと。

 

――つぎの仕事探しの合間に、描きかけの漫画を仕上げるつもりだったんですか?

篠原
先生

いえ。描いてる間は就職活動はせず、漫画に専念しました。おかげで、それまで何年もまったく進まなかった原稿なのに、わりとすぐ描きあげました。まだ札幌にいたので、飛行機で集英社に持ち込みにいったのが、28歳の終わりか29歳くらいですね。

 

――初めて持ち込んだとき、漫画家への道に手応えを感じましたか?

篠原
先生

初持ち込みのときに、ちょっと褒められたんですよね。「少年誌より、青年誌向きかもしれない。だけど、賞で入選を狙えるかも」という感じで。

 

――その編集は、デビュー当時の担当編集ですか?

篠原
先生

異動された別の編集さんです。デビュー時の担当編集に出会ったのは、3作目の原稿の持ち込みのときです。その頃には、もう会社員に戻ることは頭になかったですね。
  1. 【第1回】子どもの頃から、漫画家に憧れていた
  2. 【第2回】ゲームシナリオも手がけていた会社員時代
  3. 【第3回】リミットを2年に設定し、本格的に漫画家を目指す
  4. 【第4回】孤独なネーム作りを通じ、成長を実感

篠原健太先生 shinohara kenta

漫画家。『赤マルジャンプ』WINTER号掲載の「レッサーパンダ・パペットショー」にてデビュー。2007年〜2013年、週刊少年ジャンプで『SKET DANCE』連載。2016年〜2017年、少年ジャンプ+で『彼方のアストラ』連載。2021年2月〜週刊少年ジャンプで『ウィッチウォッチ』連載中。

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