――漫画家になるまでのリミットを2年に設定したと聞きました。2年に決めた理由はなんですか?
篠原
先生
「2年で」と誰かに宣言したわけではないんですけどね。自分の中の約束事として決意しました。実家暮らしで生活費はあまりかからなかったですが、歳も歳なので何年もだらだらやる気はまったくありませんでした。もし漫画家を諦めたら、またゲーム会社に戻りたかったのもありますね。ブランクが長すぎると戻れなくなりそうだし、そんな感じで2年くらいが妥当かなと。甘い考えですよね(笑)。でも運よくちょうど2年後に「赤マルジャンプ」に掲載されました。
――持ち込み時代、きつかったりくじけそうになった瞬間はありましたか?
篠原
先生
ずっときつかったですよ。担当編集に打ちのめされて「ちくしょう!」と思って帰ってくることの繰り返しでした。でも「くじける」というのが、漫画を描くのをやめようか悩むという意味なら、一度もくじけたことはなかったです。くじけちゃうのは、たぶん、どうしていいか分からなくなるからだと思うんです。自分が面白いと思ったものを見せても、編集は「面白い」と言わない。編集に言われた通りに直しても「違う」と言われる。こうなると、どうしていいか分からず、やさぐれていってしまうと思うんです。僕はその経験があまりないんですよね。編集の言っていることが理解できたので、「あー!そうか!」「分かった分かった!みなまで言うな。すぐ直して持ってくるから待ってろ!」みたいな(笑)。
――それがモチベーションになったんですね。
篠原
先生
そうですね。だって、誰より自分が見たいんですよ、直したあとの原稿を。面白くなることが100%分かっているので、早く直して、早く編集にも面白いと言わせたかった。ダメ出しされて悔しいけれど、自分の成長を実感できたんです。僕の場合、デビューしてからのほうが成長が停滞していたかもしれません。デビュー後に『銀魂』のアシスタントに入らせてもらったんですが、忙しくて自分のネームに時間を割けなかったんです。しばらくして担当編集にせっつかれて描いて見てもらったんですが、もうボロボロに言われて(笑)。たぶん企画ごとボツとなったのは、そのときが初めてですね。このときは、どう直していいか分からない時期だったかもしれません。
――その頃のネームは、増刊号のコンペに向けて描いていたんですか?
篠原
先生
最初は漫画賞に向けて描いていました。でも、ネームの段階から担当編集とふたりで作った自信作が、最終候補にすら入らなくて。その理由の一つとして「もう若くない年齢だから(他の若い新人より年齢分実力が要求される)」みたいに言われて、僕も編集もかなりショックを受けました。年齢は30歳だったけど漫画を描き始めてまだ2年に満たなかったので。そのあとは賞に出すのはあきらめて、もう直接増刊号のコンペに出しちゃおうという事で別のネームを作り始めました。。その頃には「キャラがね…」みたいな、ふわっとした感じじゃなくて、レベルの高い細部の打ち合わせができていたと思います。
――デビューするまで、持ち込みや漫画賞への応募のために何作くらい描きましたか?
篠原
先生
ぜんぶ覚えています。退職後に札幌で描いたものが1作目、実家に帰って2作目、デビュー時の担当編集に見せたのが3作目、担当編集とネームから作り上げたのが4作目。デビュー作の『レッサーパンダ・パペットショー』が5作目ですね。
――先ほどの漫画賞に落選してしまった作品は、4作目ですか?
篠原
先生
そうです。あのときは自己評価がいちばん高かった時期だから「これを落とすかね!?」みたいに思っていましたけど、いま考えるとぜんぜんたいしたことない(笑)。描きあげたあとは感覚が麻痺して、自己評価が高くなってしまうんですよね。
――それぞれ、どのぐらいで描き上げられたのでしょうか?
篠原
先生
2年で計5本です。漫画家を目指すなら最低でも2ゕ月~3ゕ月に1本は描かないと!と思っていましたが、やっぱりだらだらしちゃってたんですね。頻繁にネームや原稿を持ち込んでいる気合いの入った精鋭は実はあまり多くないと思ってます。漫画家を目指すなら、そういう「真剣に漫画家を目指している精鋭」のなかに自分がいるかを気にしたほうがいいですね。全体の志望者の数は膨大でも、その分母が少なくなればデビューの確率も夢のような数字じゃない。自分がその分母に入っているかどうかが大事なんです。漫画家になって連載が始まったら、本誌の人気作家たちと競いながら、1週間で19ページ描くことになるんですから。デビュー前の段階で「だらだら組」にいるなんて、もってのほか。自分を追い込まないといけない時期ですね。
――ずっとコメディを描かれていたんでしょうか?
篠原
先生
ぜんぶ違うジャンルです。1作目は青春もの、2作目は推理もの、3作目は怪盗もの、4作目はなぜか時代劇でした(笑)。僕はとくに描きたいジャンルがあったわけではなく、28歳で退職するまでろくに漫画を描いていなかったので、絵柄も固まっていない。空っぽの状態から始めているから、いろいろと試したかった。思い返すと、そうやってもがいていましたが、骨子は同じだったんですよね。ぜんぶにトリックを入れていて、5作目なんか関西弁のツッコミ役がいますから。方向性としては会話劇と関西弁、1話完結のトリック、『SKET DANCE』と同じことをやっているんです(笑)。
――持ち込む前に、自分でボツにした作品もありましたか?
篠原
先生
企画の段階で「面白くないな」と思ってやめたものは、あったかもしれません。ネームは描いたけど、原稿にまでならなかったものは、デビューしてから『SKET DANCE』のあいだに多少はあったかな?という感じですね。
――「漫画家としてやっていける」と思えたのは、いつ頃ですか?
篠原
先生
『SKET DANCE』の連載1年後くらいですかね。連載初期は必死で、まだまだ漫画家としてやっていけるなんて思えなかったです。どうやって話を作っていたかさえ、記憶にない(笑)。何巻かコミックスが出て、読者アンケートが安定して、ある程度ノウハウも溜まって「このやり方なら、ずっと続けられる」と思えたときに、初めて職業として「漫画家」になれたのかな。それまでは、とにかくチャレンジチャレンジ!でしたから。
――『SKET DANCE』連載開始時は、ネームのストックはどのくらいあったんですか?
篠原
先生
連載会議に一回落ちて、で次の連載会議に全部直したものを出したので、スタート時には6話ぶんあって、編集部も「どれでスタートしても良い」だったので、1~3話目はこのなかから選びました。でもページ数を減らさないと使えなかったので、3話目なんかコマぎっちぎちなんですよ。判型の小さい文庫本になったら、虫眼鏡で読まなきゃいけないくらい(笑)。残った3話分は隠し球として「本当にもうアイデアが出ない!」というときに使おうと思っていましたが、早々になくなりました(笑)。
――『ウィッチウォッチ』にもストックがあるんですか?
篠原
先生
まったくないです(笑)。『SKET DANCE』のときよりも、いまのほうがきついですよ。なぜなら『SKET DANCE』で使ったアイディアは使えないから。違うタイプの漫画にはしてますが、笑いとか話の作り方は同じなので、「あーこの展開スケットでもうやってたから使えない」という会話を打ち合わせで毎回のように言ってます。