――会社員時代は、どんなお仕事をされていたんですか?
附田
先生
デザインディスプレイ業です。東京ビッグサイトとかで開催されるイベントブースのデザインをしたり、会場ホールのレイアウト図を描いたりしていました。退職後の話になりますが、「ジャンプフェスタ2018」で「お食事処ゆきひら」の休憩所ブースを作ってもらったとき、施工を見に行ったんですよ。ブース内の壁面とかに何でも描いていいよと言われたので、「創真が落書きをした」という設定で絵を描いたり、隠しメニューのポップを描いて担当といっしょに貼ったり。会社員時代に使っていた私物の仮貼りテープが余っていたので、それが役に立ちました(笑)。
――会社勤めと漫画創作の両立は大変でしたか?
附田
先生
平日は残業ばかりで、家に帰るのはいつも夜の10~11時過ぎ。平日は何も描けませんでした。土日出勤も多かったし、だらだら過ごした日もあったので、けっきょく漫画を描けるのは 1ゕ月のうち3~5 日ほど。コツコツとネームを描いていました。
――ネームを描くのは早かったんですね。
附田
先生
まだ「ネームをどうやって揉むか?」みたいな経験則がないから、早かったですね。とりあえずポンって思いついたものを組んで、担当編集に見てもらえばいいかと思っていたので。だから、その頃はセルフボツもほとんどしませんでした。
――仕事のある平日に、ネームのことを考えることもありましたか?
附田
先生
ありました。休憩中や外出の移動中に、担当編集に言われたことを「どうしようかな」と、ぼんやり考えるくらいはしていました。
――毎月「ここまでは描こう」といった目標は設定していましたか?
附田
先生
あまり意識していなかったですね。担当編集からも、増刊に掲載する会議のスケジュールとかはいっさい聞かされていませんでしたし。ときどき「あのネタ、今月中に見たいんだけど」と言われるので、「じゃあ、間に合うようにがんばります」みたいな感じでした。学生時代の『57th -フィフティセブンス-』も、そうやってぽんって持っていったネームがそのまま会議に通って増刊掲載に至ったから、編集さんとしては、この調子でどんどん描かせて漫画家として育成する時期だと思っていたのかもしれませんね。
――漫画家になろうと意識したきっかけは、なんでしたか?
附田
先生
会社員2年目で、自分が仕事ができない、サラリーマンにむいていないかも、と気づいたことがきっかけかもしれないです。同期がみんな優秀でデザインセンスは高いし、休日返上で仕事に邁進してどんどん駆け上がっていくしで、「自分はそこまでがんばれていない」と行き詰まりを感じていました。毎朝の通勤ラッシュも本当にきつかった!普通はそれでも必死に仕事に向き合うんでしょうけれど、僕の場合、そのエネルギーが漫画のほうに向いちゃいました。
――現実逃避のような感じですか?
附田
先生
まさに現実逃避です。ちょうどその年の末に、担当編集に『少年疾駆』の1話目にあたる読切のネームを見せたら「これは連載を狙えるレベルだよ。あとは、いつ会社を辞めるかだね」と言われて(笑)。そこでようやく、本気で漫画家としてチャレンジしようと決意できました。会社員時代の同期が優秀じゃなかったら『少年疾駆』も『食戟のソーマ』も生まれていなかったかもしれないですね。
――担当編集は先見の明がありましたね。
附田
先生
本当にそう思います。頭が上がらないですよ。
――退職して漫画家を目指そうと決めたとき、収入面なども含めて生活の変化に不安はありましたか?
附田
先生
あまり不安はなかったです。いったん会社勤めをして職歴ができたから、もし漫画家になれなかったとしても、また就職活動をすればいいやって本気で思っていました。また、担当編集には「連載に至らなければ、アシスタントの仕事を紹介する」とも言われていたので、食いっぱぐれなさそうだったし(笑)。
――退職後、漫画家になるまでにくじけそうになった瞬間はありましたか?
附田
先生
すでに会社員時代にくじけていますからね。「自分は仕事ができない」って(笑)。その気持ちをバネにかんばって、『少年疾駆』までは本当にトントン拍子でした。当時は右も左もわからず、挫折感を抱くこともなければ、乗り越えなきゃいけないものも見えていなかったので。そういうものが見えてきたのは、『少年疾駆』の連載終了から『食戟のソーマ』連載開始までの2年間でした。その間、2~4ゕ月に1本くらいのペースでネームを描いていたんですが、ボツになることも多くて。だんだん貯金も減り「原作者になろうかな」とか「生活費のためにアシスタントに入ろうかな」と心がざわつく夜を過ごし、とりあえずお酒に逃げたり(笑)。でも担当編集を信頼していたので、アドバイスを受けながらひとつひとつやっていくなかで、グルメ漫画がうまくいった感じです。
――退職後は、漫画のお仕事だけで生活をされていたんですか?
附田
先生
完全に漫画1本でした。漫画家を目指したきっかけと、くじけそうな気持ちを乗り越えられたモチベーションに共通するのは「満員電車に乗りたくない!」という思いです(笑)。漫画家になったら、朝起きてドアを開ければ通勤が完了するのが幸せすぎました。締切に追われていても「自由だ!」という気持ちが強くて。もう会社勤めはしたくないから、うまく描くしかないと思っていましたね。
――子どもの頃に想像していた「漫画家は激務」とは違いましたか?
附田
先生
そうですね。『少年疾駆』連載時は「大変だけど、なんとかやっていけるな」と思っていました。アシスタントのみんながすごくいい人たちで、作業も楽しかったですし。ただ、漫画全体の線量は少ないし、キャラの描き込みが甘すぎて「ぜんぜん時間かけてないな」と思っていました。子どもの頃に読んだ、藤田和日郎先生が魂で練り込んで描いた漫画と比べると、ぜんぜん甘い!という自覚はありましたね。
――週刊連載のペースには、すぐに慣れましたか?
附田
先生
ネームを1日5ページずつ、3~4日で19ページ完成させることをノルマに、むりやりなんとかしていましたね。「残業してでも、1日に5ページは終わらせてから寝る!」と決めて。ネーム中は睡眠不足でしたけど、作画作業がはじまれば毎日ちゃんと睡眠はとれていました。